Appleの歴史【完全版】(前編)
Apple Inc.

今回取り上げるのは、Apple社の「創業史」です。

色々な場所で語られてきたので「今さら?」という部分もありますが、詳しく見ると知らないことも意外と多いものです。

Appleの歴史:4つのフェーズ

Appleの歴史を振り返ると、大きく次の4フェーズに分けられます。

第1フェーズは、創業から「Apple II」の成功まで(1976〜1980)。これによって1980年、Appleは株式公開を行い、成功企業の仲間入りを果たしました。

第2フェーズは、「Apple III」「リサ」「マッキントッシュ」が失敗し、ジョブズらが離脱、スカリーの退任という長期低迷期です(1981〜1997)。

第3フェーズは、ジョブズの復帰と再建、iPhoneの大ヒットまで(1997〜2011)。私たちが認識している「Apple」は、この時期に完成したと言っていいでしょう。

そして第4フェーズが、ジョブズの死後、ティム・クックによる経営時代(2011〜)です。カリスマを失って全盛期を終えるかに思われたAppleですが、一時は世界最大の時価総額になるなど、更なる躍進を遂げました。

今回フォーカスしたいのは、第1フェーズ「アップル・コンピュータの創業史」です。

語られ尽くした話題ではありますが、いつもスポットライトを当てられるのは、ジョブズ中心のドラマチックな面ばかり。

しかし実際には、当時のジョブズは年若く、技術もなかったため、圧倒的トップというわけでは決してありませんでした。

今回は、アップルの創業史について、資金繰りの苦労など、実務面にもフォーカスしてまとめたいと思います。

二人のスティーブが出会う

Appleの歴史は1971年、二人のスティーブの出会いから始まりました。

引き合わせたのは、スティーブ・ウォズニアックの友人だったビル・フェルナンデスです。

ウォズニアックが住んでいた一帯は、そのほとんどがエンジニア一家で占められており、電子工作が好きな近所の親友がフェルナンデスでした。

当時、自作のコンピュータ作りに挑戦していたウォズニアックはフェルナンデスを仲間に引き入れ、クリームソーダを飲みながら数週間、開発に明け暮れます。

完成間近になった頃、フェルナンデスが「こいつに会った方がいい」とガレージに連れてきたのが、スティーブ・ジョブズでした。

ジョブズは当時16歳と、ウォズニアックより4つも年下でしたが、大人びているところもあって意気投合。

有名な「ブルーボックス」など数々のイタズラを楽しんだあと、ちょっとしたプロジェクトとして始めたのがアップル・コンピュータでした。

Apple史上最大のエピソード

電子工学を共通点に仲良くなった二人でしたが、ジョブズは、技術的な詳細に関心があるわけではありません。

「(電子工学は好きだけど)自分がエンジニアになるとは、とても思えない

悶々としていたジョブズは1976年、ウォズニアックに「プリント回路基板を作って、売り出そう」と持ちかけます。

ウォズニアックは当惑しますが、「試しに2、3個売ってみよう」ということで、軽いノリで始まったようです。

ジョブズ自身、合名会社として事業をちょっとやってみたいくらいの気持ち。初めは、アタリ社との契約も続けていました。

アップル・コンピュータという名前にも、100%満足していたわけではなかったものの、「それ以上に良い名前が思いつかない」という理由で決定。

プリント回路基板を25ドルで作って、一個50ドルで100個くらいは売れそうだ、という極めて控え目なプランでスタートします。

アタリ社のロン・ウェインも引き入れ、3人で会社を設立すると、持ち寄った1300ドルの資金で材料を発注。

1976年4月になると、有名なホームブリュー・クラブで正式にお披露目。反応は微妙でしたが、そこで「バイト・ショップ」という店舗を開いていたポール・テレルに出会います。

テレルは、電子機器の全国チェーンを作りたいと考えるほどの野心家。コンピュータを大量に買える、創業したばかりのアップルにとって理想的な売り先でした。

ジョブズはバイト・ショップを訪れ、プリント回路基板100個分の注文と前渡金をもらえないかと、売り込みに行きます。

ところがテレルは「基板なんか要らない、完成したコンピュータなら買ってもいい」と返答。

それならばと、「完成したコンピュータなら、いくら払ってくれる?」と尋ねると、「489ドルから589ドルまでの間だ」と答えます。さらに、完成品なら50台注文してもいい、現金で払うとまで言ってくれます。

ジョブズとウォズニアックは、これに驚愕。後にウォズニアックが「アップル史上最大のエピソードだった」と回想しているほどで、事業の方向性が大きく変わってしまいました。

悪戦苦闘の末に完成した「AppleⅠ」

コンピュータを作るとなると、必要な資金もケタ違いに大きくなります。

ジョブズは銀行に行き、支店長を掴まえて融資を頼み込みますが、孫正義氏のようには行かず、断られます。

お金が調達できないなら、部品を前渡ししてもらおうとしますが、部品を「現物出資」しないか、と言っても断られ、勤め先のアタリ社もダメでした。

それでも根気強く走り回った結果、自分の会社を通じて部品を融通してくれるスタンフォード大の教授や、2万ドル相当の部品を後払いで売ってくれる会社が現れました。

部品を確保した二人は、コンピュータを組み立てる場所を探します。ウォズニアックは新婚ホヤホヤだったため、選んだのがジョブズの実家です。

空いていた妹パティの部屋を勝手に占領し、何袋ものパーツを置いて倉庫にしました。この部屋と、ジョブズの部屋を使って組み立てをスタート。

妹も駆り出して完成させ、テレルの店に持っていきますが、テレルは「これじゃ、何にもないのと同じだ」という感想。

テレルが言うには、持って行ったのはコンピュータではなく、完全に組み立てられた「プリント基板」。

それでも、テレルはこの機械を受け取り、約束した通り現金で、ジョブズに代金を支払います。

二度目の納入分となる50台の組み立て作業が始まると、父親のポール・ジョブズが「ガレージに移してはどうか」と提案。

それでもガレージは一杯になり、ジョブズの両親をも巻き込んで、仕事を続けました。

テレルはアップル・コンピュータを仕入れてくれましたが、売れ行きは悪く、「なかなか捌けず、苦労した」と回想しています。

借金を背負うことを恐れてロン・ウェインが辞めたのもこの頃。ジョブズ自身も、アップルを辞めて日本の禅寺に入ろうか、真剣に悩んでいたそうです。

しかし、禅僧のコビン・チーノー氏が「事業も座禅をすることも同じ。事業を続けた方がよい」と助言したことで、ジョブズは日本行きを中止。

今から考えると、グッドジョブとしか言いようがありません。

ウォズニアックがジョブズに抱いた疑念

この間、ウォズニアックは、自らの技術力を総動員して、アップル・コンピュータの改善に励んでいます。

中でも大きかったのが、ごく少数のチップを使った「カラー表示」の実現です。当時、カラー表示には最低40個のチップが必要だとされ、小さなコンピュータに実装するのは困難でした。

ウォズニアックは、元々の約半分にまでチップ数を減らした上で、カラー機能を実現。

その他にも数々の改良がウォズニアックの手によってなされ、それゆえに1つの問題を抱えていました。

アップル・コンピュータ創立時に3人の間で、「アップルに改良を加えた場合、その全てについての権利をウォズニアックが所有する」という内容を、口頭で取り決めていました。

つまり、どんな発明にせよ、誰に販売するかウォズニアックが自由に決められたのです。当時のウォズニアックは「自分の技術をアップルに使わせてやってもいい」と恩着せがましい態度だったと言います。

そして、ウォズニアックはジョブズを100%信頼していませんでした。彼の家族は、さらに疑い深い目で見ていました。父親ジェリーに至っては「他の人と組んだらどうか」と勧めるほど。

コンピュータを作っているのは自分であり、ウォズニアック自身も「これ、ジョブズに渡していいのか?」と自問していたのです。

こうした疑念がピークを迎えたのが、1976年の秋に訪れた「買収話」です。

(中編に続く)